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Architectural Computing デザイントーク

身体性を目覚めさせるためのAR、Architectural Computing宣言

ARの会社、などと紹介されながら、全くARらしくない事業展開をしていることに説明を求められる機会が増えてきた。私たちの考えるARとはどのようなものなのか。ARというジャーゴンが普及し始めている中で、どのような立ち位置を取り得るのかについて表明しておくことは重要であると考えられるので、この場を借りて表明しておく。

ARとは本来、グラストロンをかけて観ている場合にいえるもので、カメラを動かしたときに画面上でみえるものは拡張現実のようであって、そうではない。それは完全なる虚像である。グラストロンをかけたときとの身体性と、カメラでみるときの身体性は本質的に異なるものである。画面を手を動かして見るという行為は拡張現実にはなりえていない。観るという身体性は目によって実現されるものであり、手でなされるものではない。現在もてはやされているものはARではなく、ARToolkitを用いたViewerである。ジュラシックパークの恐竜たちと違うのは、カメラの座標点と連動しているというだけのことで、そこに新規性はほぼない。

例えば、Wiiリモコンと今までのコントローラーの違いを考えてみよう。バットを振るために、ボタンを押すという行為と、Wiiリモコンを振る、という行動を考える。いずれのインタラクションも結果は同じだが、過程における体験が本質的に異なる。
 既存:座標系を、ボタンを通して射影(座標変換)されなければならない。
 AR:その行為を中心とした座標が、現実と仮想空間とで同一である。
ARでは自分が行った身体的な行動によって、同一座標面上に何らかのActionが発生する必要がある。その意味において、現在もてはやされているARは、身体的な動きを反映したシステムとはなっていない。もしそこに何らかの身体的フィードバックがある、たとえばキャラクターがいて、そこに指を出すと反応する(画面をタッチするという意味ではない)ようなシステムがあれば、そこでARが成立しているということは恐らく可能であろう。

そしてこれこそがさらに重要なことだが、ARによって身体性を拡張する、というのも違う。身体性を目覚めさせるためのコンピューティングこそ、本来必要な指向性である。「身体性を拡張する」という表現には、身体性は常に自覚的にコントロールされているという暗黙の前提があるが、それは全くの誤解である。私たちはそのシステム上、身体性のほとんどを無意識的にコントロールしているのであり、それを自覚的にコントロールすることなどできていない。盲点や錯視を考えれば、自明であろう。この前提に依るべきである。

言い換えるとARは、自覚的に単純化された行為を、さらに単純化・効率化するための技術ではない。ここでいきなり単純化というキーワードを出したが、これは技術者は基本的に作業の効率化と構造化を志向していることに依拠する。線を一本描く作業をOpenGLで為し得ようとすれば、フレームバッファを初期化し、座標系を調整し、アルファチャンネルの有無を決定し、というように、大量のコーディングが必要になる。それがGUIの一般化によって2クリックで終わるようになった。技術者は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、そうした美徳を好む人種である。つまりプログラマーは、現在起きている事象を簡潔にすることを目標として動いている。

例えば、Webの志向は単純化にある。コラボレーションができる、中抜きができる、といったWebの利点は、社会システムを再度単純化し、古代的な1to1のアプローチを復活させたところに価値が生じた。その典型がTwitterである。Twitterは共同体的でありながら個別にコンタクトを取り得る村的コミュニティの形成に適している。

しかし極限までの単純化は、複雑性への回帰をもたらす。ある社会における行動はパターンナイズされているように思える。だが、個別の行動基準で考えれば、それは多様で無限に複雑化された世界だ。例えば今のGoogleがそのような道筋を辿っている。1clickで検索できるというパターン化は、それを個別のパーソナルな検索という基準に落とし込み始めた時に崩壊した。Simplicityの先にある複雑性への先見が必要である。

単純化は同時に、人をたやすくパターン化のサイクルに落とし込む。ググれば出てくる、という事象をみて、人間は馬鹿になったのか、という問いが出ている。レポート、クイズの答えを検索して、その検索結果が世界の全てだと思った人がいる。だが、実社会における問題はそんな容易い問題ではない。そこで壁に突き当たる。ハルヒの絵をググることは可能だが、ハルヒの絵を描くことは難しい。何らかの行為を要求された瞬間に、人間的な性質や経験値が大きく問われてくる。How toは手に入るが、その先のActionは完全に人間の身体的な記憶に依存してしまう。

どんなにデジタル化をしようとも、知識・経験・記憶から人は逃れられない。あなたの世界はあなた自身が創り出すものである。デジタル化で人は馬鹿になるのではなく、何もしていないだけである。また、他者の記憶・経験に基づいて記録されたコンテンツが大量に存在するが故に、そのコンテンツを消費する行為をし続けると、完全なる傍観者になることができる。何も為さずとも生きていける状態が発生する。これがいわゆる象徴の貧困と云われている現象である。他者のストーリーを傍観(消費)し続けるだけで、自分の人生が終わるのだ。永遠の観客の先に人間的で文化的な営みや、記号的飛躍は起こりえない。

だから我々は身体性を取り戻さなければならない。言い換えれば、ただ傍観者になるのみならず、何かのActionを為さなければならない。コンピュータは、それぞれが自分の人生を歩むための劇場や箱ではありうるが、それは観客席なのではない、はずである。今のコンピュータには、人が、これは私のための舞台であり、劇場なのだと自覚し、演劇を営むための装置、つまり象徴の貧困を回避するための枠組が決定的に不足している。How toの先のActionを誘発することこそが、真のコンピューティングの根幹にあるべきだと考える。僕ら(サイフォン)はそれを、Architectural Computingと呼びたい。

そうした思想の中で、ARは身体性を意識化し、人が何かを為すための一助ができる可能性があると私たちは考えている。このような観点に基づいた私たちなりのアプローチについては、また近日、お知らせできるかと思う。