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		<title>ゲームセンターと外との接続性をARでどのように作るか</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/04/28/augmented-arcade/</link>
		<comments>http://www.shosira.com/2010/04/28/augmented-arcade/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 27 Apr 2010 20:48:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[徒然日記]]></category>

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		<description><![CDATA[
ARでゲームセンターに人を呼び戻すことができないか？という三宅さんの記事がきっかけとなって、twitter上で議論が盛り上がっていました。
「AR（拡張現実） × アミューズメント施設、ゲームセンター」で人を集めよう！ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>ARでゲームセンターに人を呼び戻すことができないか？という<a href="http://blogai.igda.jp/article/37410002.html">三宅さんの記事</a>がきっかけとなって、twitter上で議論が盛り上がっていました。</p>
<p>「AR（拡張現実） × アミューズメント施設、ゲームセンター」で人を集めよう！<br />
<a href="http://togetter.com/li/17203">http://togetter.com/li/17203</a></p>
<p>なんとなく議論に参加しているうちに、いろいろ着想が出てきたのでまとめてみます。</p>
<p><strong>そもそもARとは何か？</strong><br />
前にもblogで記事にしたんですが、カメラを通すと3Dで何かを表示する技術、というDisplayのところだけを切り取ってくると発想が活かしきれない。3Dを重ねるだけなら、Realtime Tracking and Matchmovingとでも言った方が良さそうです。なぜそれが、Argumented Reality、という名称で呼ばれるのかを押さえておきましょう。</p>
<p>ARでよく描かれる、スーパー未来はこんなものです。まずはわくわくしてください。<br />
<object width="560" height="340"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Q_xF8ujj7ko&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;rel=0"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/Q_xF8ujj7ko&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;rel=0" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="560" height="340"></embed></object></p>
<p>ARは、人間の認識を拡張することを目的として発展してきました。人の認識能力には、いろいろな特徴があります。視覚でいえば、錯覚がその良い例だし、ゆるやかな変化には気付きにくかったりする。そうしたときにコンピュータがうまくサポートしてあげることで、人の認知・情報処理能力を高めよう、というのがARの前提にあります。だから例えば、昨今の「AR」からは、ちょっと外れたARをお見せすると、こんなのがあります。</p>
<p><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/9Z6-i9pZrSU&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;rel=0"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/9Z6-i9pZrSU&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;rel=0" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></p>
<p>突いたボールがどう転がっていくかは人には認識するのが難しい。だから補助線を表示しましょう、というもの。立派に現実感を拡張し、情報処理能力を強化しています。重要なのは、視覚に重ね合わせるように表示することで「認識が拡張されること」なのです。加えて言っておくと、前者の映像は静的な情報を拡張していて、後者の映像は、動的な情報の拡張を行っています。</p>
<p>ARでは<br />
・どの情報を指し示すと有効なのか（静的・動的）<br />
・どのように表示すると、より分かりやすく視覚的に認知可能なのか<br />
を検討する必要があります。</p>
<p><strong>ARでゲームセンターを拡張しよう</strong><br />
以上の前提に立つと、エヴァ屹立は果たしてARなの？という疑問が沸き起こってきます。ただ、現実空間に架空のキャラクターをおくことで、場の意味を新たに作り出してしまうような方向性も重要だと僕は思っています。特に日本人には親和性の高い話でしょう。日本人が古来から行ってきた「見立て」の延長上に、昨今のムーブメントがあるように感じるからです（ただし、それをどう取り扱うかは、考慮の余地がありそうです。恐らく重要な意味があるのです）。ここでは、認識の拡張という前提に立ち戻った上で、場の見立てを考慮にいれながら、ARとゲームセンターの可能性について考えます。</p>
<p>三宅さんの問いは、ARでゲームセンターに人を呼び戻すことができないか？というものでした。blog＋Twitterで出てきたアイデアの目指している効果は、以下のように分けられるものと考えられます。<br />
・ゲーセンで何が起きているかを「外に」伝えること<br />
・ゲームをゲーセンの「外に」拡張すること<br />
・ゲーセンという場の意味を変化させること（外にいるときにもゲーセンの意味があること）<br />
によって、ユーザがゲーセンに入ってゲームをしようと思うこと（ここが重要）。</p>
<p>ちなみに僕はあまりゲーセンに行かない人間なんですが、なんでゲーセンに行かないかというと、<br />
・ゲーセンまで行くのが面倒<br />
・操作が分からない（例えば僕なんかは格闘ゲーム触れません、怖くて）<br />
・みんなで行くことが難しくなった<br />
・ゲームなら、手元で出来る<br />
ことが挙げられます（ざっとですけど）。</p>
<p>@mutsubeさんや@CakeTwtさんのご指摘通り、僕はTLを読んでいるうちに、これはゲームセンターという機能をどう拡張するかという問題なのではないかと考えましたが、その発想の原点には、どうやったら、今のゲーセンが抱えるこうした問題を解決できるのか？という視点があったりします。言い換えるならば、ゲームセンターという場をもう一度、今の技術を踏まえて設計し直してみると、どうなるか。これをちょっと考えてみたいのです。</p>
<p><strong>ゲーセンとの距離と場所に応じてゲームの意味が変わること</strong><br />
まずは最初の、いろいろと面倒だという問題から。ゲーセンまで行くのが面倒だけどゲームはやりたいという欲求を満たすために、みんなPSPだのDSだのはやっています。ならば携帯とゲーセンをリアルタイムに結び、さらに見立てを導入する。iPhoneなら、かなりリッチなゲームを用意することができます。</p>
<p>DSを持ち込むことでゲーセンに行く価値が、という発想はあったと思いますが、ただ単につないだんじゃゲーセンに行く動機が生まれない。だから、その距離感や場に意味を持たせたい。ならば、ゲーセンを前線基地、iPhoneを補給部隊や後方支援基地として定義するような発想のゲームはありうるんじゃないかと思うのです。その上でリアルタイム性というのは、ゲームの世界の時間軸を同じにして、ゲーセンと携帯とをきちんとつないであげるためにも重要な要件だと感じます。あそこでみんな戦ってるんだぜ！でも僕はゲーセンには行けてないから、外から支援するぜ、という見立て。</p>
<p>もちろん、今のブラウザアプリのように、普段は体を鍛えたり農作物を育てたりしていて、ゲーセンに行くと試合ができたり、結果としてのゲームができるというのも、ありでしょう。</p>
<p>その上で、ゲーセンで今プレイされている様子を直感的に示すために、ARを施す。ゲーセンの方をカメラでみると何やら巨大なロボットが動いていたり、戦闘の様子がみえたりしたら、これはちょっと面白いかもしれません。しかも手元でプレイに参加することでリアルタイムに見える景色が変わるとしたら、ARの意味も十分出てきます。</p>
<p><strong>みんなで出来ること＝ゲームの視点を変えること</strong><br />
役割やゲームの方向性を微妙に変えてあげることで、ゲーセンでゲームをしている当事者とゆるやかにつながれる、というのは結構大事な視点なのではないかと思います。あるいは個々のプレイヤーの役割を、筐体と携帯で分けて考えてあげる。MMORPGでずーっとアイテム集めだけしてる人とかいますよね。あの緩さが大好きなんです。</p>
<blockquote><p>@miyayou だとすると、Social＋ARで、ゲームセンターの中と外でインタラクション考えると面白いですね。渋谷のゲーセンにいるんだけど、誰か、こっちに向けてエナジーパック撃ってくれー！！とか。<a href="http://twitter.com/shosira/status/12953975677">http://twitter.com/shosira/status/12953975677</a> </p></blockquote>
<p>他にはたとえば、カップルでゲーセンに来ていて、彼氏がレーシングゲームをしていると彼女は遊べません。戦場の絆という話がありましたが、あれは同じ視点に立つゲームですよね。みんながみんな同じ操作に熟達できるわけじゃない。そこへの配慮が、今のゲーセンでは欠けているような気がするのです（僕は結構、横で観ている派なのでよく分かる）。だから、普段慣れ親しんでいる携帯で、ゲームセンターでゲームが楽しめるようにするのはインタフェースとしてアリだと僕は思います。<br />
・ある筐体ゲームの横で、同じタイトルのミニゲームを筐体のプレイヤーと連携して楽しめる。</p>
<p>その上でARをどう使うか。たとえば、<br />
・FPSしている人の横でiPhoneカメラを構えて、アシストの役割をする。<br />
　（CCさくらでいうところの、ケロちゃんじゃないか！）<br />
・渋谷のゲーセンにいるんだけど、誰かエナジーパックこっちに撃ってくれー！という依頼に応える<br />
というものは考えられそうです。それなら、ゲームが得意じゃなくても出来るし筐体を大掛かりにする必要がない。</p>
<p><strong>まとめ</strong><br />
僕自身は、今のゲームセンターと日常の接続性をどのように作るか、というのが問われていると思っています。そのときに、<strong>ゲームセンターや携帯ゲーム機の存在（意義）を、ロケーション、人、あるいは人々の関係、動機によって、動的に変えながら提案していくこと</strong>が重要な切り口になると考えています。MMORPGをリアルの場に持ち込むにはどうしたらいいか、というと分かりやすいかもしれません。</p>
<p>・ゲーセンという場そのものに固有の意味を与えて、外部からゆるやかに接続させる。<br />
・ゲーセンの中にゲームの世界が広がるのではなく、ゲーム世界の特異点としてゲーセンがある状態を目指す。<br />
・多視点を許容するために、筐体以外の人々が持っているデバイスを使えるようにする。</p>
<p>その上で、<strong>場所と役割に応じた見立ての提示手段としてARを使う</strong>。そんなゲームの開発はとても難しそうですが、やる価値はあるのではないかと感じています。その着想からARを最大限活用する、というのは、とてもわくわくできることのように思えました。もっといろんな議論が出てくるのが楽しみです。</p>
<p>最後に参考記事として、ASCIIの記事も掲載しておきます。特に5〜6ページ目付近は、よく読んでいただきたい内容です。</p>
<p>本当の「AR」とは？ ARの歴史と未来の姿を追う！<br />
<a href="http://ascii.jp/elem/000/000/514/514146/">http://ascii.jp/elem/000/000/514/514146/</a></p>

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		<item>
		<title>電子書籍の衝撃：電子書籍の「制約」が見えない</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/04/22/whats-rules-of-digital-book/</link>
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		<pubDate>Wed, 21 Apr 2010 17:23:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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		<description><![CDATA[
先日「電子書籍の衝撃」という本をようやく読みました。読みながらTwitterに、ちょっと違和感がある、という呟きをちらっとしたのだけど、どうしてそう思ったか、少しだけフォローしようと思います。

書籍が電子化されるとい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>先日「電子書籍の衝撃」という本をようやく読みました。読みながらTwitterに、ちょっと違和感がある、という呟きをちらっとしたのだけど、どうしてそう思ったか、少しだけフォローしようと思います。<br />
<span id="more-221"></span><br />
書籍が電子化されるというのは、よく考えてみると、とても奇妙な表現です。文章を書き、それを印刷物にし、流通させる。その中で最もハードルが高く、そしてそれ故に、編集という価値が最上のプレミアムとして付加される、という社会の共通認識があったもの、それが書籍です。そして、その区分、雑誌なのか本なのか、といった境界を決めてきたのは、流通や技術という物理的な制約です。そして編集という行為は、メディアというコンテナに、テキストを正しく載せて送り出すための作業であり、それぞれのコンテナに合わせて特化された職能として規定され、機能してきた。実際、新聞記者、雑誌編集者、文芸書担当、それぞれに「編集」の意味合いは、おそらく微妙に異なると思われます。</p>
<p>しかし、電子の海では、そのような区分がありません。短い文章だろうと、長い文章だろうと、同じコンテナに載ってしまいます。そこで何が起きたか。最初、私たちは区分という記憶をデジタルに転写することから始めました。その原型はHTMLの仕様に窺うことができます。インターネット初期、誰もがまずは手紙を電子化するところから始め、次に章立てされた原稿の執筆を試みた。慣れるにつれて、それらはゆるやかに溶け合い、意識されることは少なくなった。紙や流通という制約から解き放たれたが故に、区分が分解されていった結果、制約もなくなった。結果、生まれたのが今のウェブの状況といえます。結果、編集という過程もフラットに分解され、アンビエント化した。今、ウェブ上の編集は目に見えません。編集が遍在化しているからです。編集ができないのではなく、されていないのでもなく、昔のようには可視化できない。</p>
<p>そして現在、ウェブ上で行われているのは、フラット化した「書く」という行為をもう一度見直し、電子化された中で知的探求を行う可能性を探す、制約の模索です。言い換えると、自由だからこそ、あえて制約を課す作業を行っているのです。フラット化の果てに、制約の必要性に私たちは気づいた。メールマガジンという制約、blogという制約、140字という制約、携帯小説という制約。新しい制約を提示することが、コンテンツを生み出す時代になっています。制約を提示するからこそ、創造性が保証される。制約に基づいた創造を行い、制約の更新を行うことが、全ての知的活動の基本原則にある、というのはネットの時代も変わらない。知的作業におけるプラットフォームとは、新しい制約のことです。</p>
<p>書籍という制約は、電子の世界で保てるのだろうか？残念ながら電子書籍という定義に制約がないのであれば、今までのネットがそうであったようにいずれ溶け出して行くでしょう。そこに、明確な制約を定義した人は生き残れるし、そうでない人はネットの海に埋没せざるを得ない。それこそが電子書籍の衝撃なのではないか。そう思います。</p>
<p>今日はもう長めになったので止めますけど、流通の話ばかりに気が囚われて、そうした電子書籍の制約に関するお話がなかなか出てこないのが、個人的には気になるところです。続きは気が向いたら。</p>

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		<title>SNSの役割は自分の中で終わったようなのでmixiやめるなう</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/04/11/sns-ended/</link>
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		<pubDate>Sat, 10 Apr 2010 19:19:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[SNS]]></category>

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		<description><![CDATA[
表題はちょっと言い過ぎだけど、そう言っても過言じゃない時期に入ったみたい。仕事上のネットワークはLinkedinで十分につながれるし、Twitterで十分連絡がつく。
もはや、わざわざ、ネットワークのためのSNSはなく [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>表題はちょっと言い過ぎだけど、そう言っても過言じゃない時期に入ったみたい。仕事上のネットワークはLinkedinで十分につながれるし、Twitterで十分連絡がつく。</p>
<p>もはや、わざわざ、ネットワークのためのSNSはなくてもいい。リアルな自分とネットの自分が不可分なところまで、ネットは到達してしまってる。個人的に今、mixiを止めて困ることは何もない。<br />
<span id="more-208"></span><br />
理由はいくつか。<br />
・基本的に人の日記か、ニュースしか読まない。<br />
・だが、そのほとんどが役に立たないか面白くない。<br />
・本当に面白い記事は、他の場所でたくさん手に入る。<br />
・僕への連絡先はこのサイトが存続する限り確立されている。<br />
・Twitterにはダイレクトメッセージ機能がある。<br />
・「もしも」の連絡に、mixiを使うことは実際には、ほとんどない。</p>
<p>この現状がmixiアプリの登場で変わるかといえば、そんなことは全然なかった。iPhoneがあるし、iPadも出るし、普段一緒にゲームをする友人とか、mixiアプリを共有したくなるマイミクなんて、本当に限られてくる。招待状受け取る側で、おおって思った事あります？ほとんどないです。</p>
<p>自分の仕事上は、mixiのユーザさん向けのフォローが必要になる局面もあると思う。だからmixiアプリ作るんなら、また再考しなきゃいけないですけど、それはまた、そのときに考えれば済む話。正直、それも実はちょっと疑問。だってテスティング用の会社のアカウント、あるしね。</p>
<p>最後に関しては幼稚園時代の同級生や先生だとか、そういうmixiしかつながりがない人たちとの連絡先を残す必要性はあるけど、それでも今つながっている人たちに、このサイトが認知されてれば個人的には問題ないという判断をしました。最低限、キーパーソンになる人の外部ブログは知っているし・・・。何かあったら、会社まで連絡くれればと思います。個人的なメールアドレスが知りたければ、お早めにご連絡を！</p>
<p>というわけで、告知期間１週間過ぎたらやめます。ほんとはFacebookとMySpaceも辞めたいなう。あーいう、つながること自体が目的化するSNSは青年期にこそ必要であれ、30代に近くなってきた僕らには、もう必要ないんじゃなかろうかと思う。</p>

]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>日本の起業が増えない系の話について</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/03/20/ad-venture/</link>
		<comments>http://www.shosira.com/2010/03/20/ad-venture/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 19 Mar 2010 18:45:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[徒然日記]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.shosira.com/?p=201</guid>
		<description><![CDATA[
起業やら創業やらの話が盛り上がっているようなので一言だけ。ネット界隈や雑誌で語られる起業話って、どのクラスのものなのかが、まず前提として語られないことが多いので、どうにも地に足ついた議論が少ない。ライブドア創業しますと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>起業やら創業やらの話が盛り上がっているようなので一言だけ。ネット界隈や雑誌で語られる起業話って、どのクラスのものなのかが、まず前提として語られないことが多いので、どうにも地に足ついた議論が少ない。ライブドア創業しますとかは、そりゃー稀少なわけで、大半はスモールスタートなわけです。喫茶店始めたいとか。だからここでは、スモールスタートの話をしようかな。</p>
<p>考えてみましょうよ、自営とか家族経営クラスの人はそこら中にいるでしょう？ラーメン屋のおっちゃんとかだってそうだよ。試しに近所の税務署か法務局に張り付いてみててご覧なさいな。オススメは1月10日か、7月10日の税務署前だ。毎月10日でも構わない。税務署にやってくる人の多様性は想像を超えますよ。起業はそこらに転がっている。登記をすれば誰でも社長になれますよね。そういう話じゃないって？どうでしょう？世の中の大半の人にとって自分が起業リスクを過大評価しているのか、過小評価しているか、論じるのは困難だ。しかし周囲には、経営者の立場にいる人は意外にいる。彼らはネット論壇が言うほど真剣に考えて起業したんだろうか。中身はその辺にいるようなおばちゃん・おじちゃんなのに。その辺の乖離が、どこから生じるのか、が僕は気にかかる。<br />
<span id="more-201"></span><br />
個人的には、スモールスタートの創業・起業にとってのハードルは、<br />
・税金や厚生年金などの制度設計や規制<br />
・失敗したときの経営者の保護<br />
の２つ。実はひとつめが盲点なんじゃないかしら。会社法人化することによって、守らなければならないことは桁違いに増える。支払わなければならない税金・社会保険の額は結構な負担になるし、そもそも制度がさっぱり分からない。個人を守るための制度が、スモールスタートの起業家にとっては足枷になる。源泉徴収事務に年末調整、決算、これでもかというほどやることがあって、間違えると社長でしょと怒られる。そういう「実際」は結構あるのに、こういう議論のときって経営してる人の意見が出てこない。僕のスコープが狭いだけかもしれないけど、経営者が書いた今回の創業関連記事はこれくらい。以下の記事には結構頷かされる。<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/kuippa/20100311/1268327600">http://d.hatena.ne.jp/kuippa/20100311/1268327600</a></p>
<p>試しに少し、現実的な話を書く。資本金が少なくて済む、IT関連で極小のスモールスタートをした場合を想定しよう。現実的な出費として必ず出て行くのは源泉徴収税と社会保険などの費用なので、役員報酬を一定額以下にしない限り、国という壁が立ちはだかる。それで逡巡するなら個人事業主でいた方が良いわけ。自己資金がないなら新規創業資金なんかも借りられないから、借入はほぼ皆無だ。ここでもハードルが上がる。銀行は貸してくれないだろう。そもそも借入を始めたが最後、連帯保証やら何やら、有限責任はどこかへ消し飛ぶ。さて、それで、どうやって続けるか？あるいは途中で自主廃業か。こういうリアルな話はあまり聞かない。若者はどこへ行ったのか、のノリでいえば、清算したり潰れた会社の経営者さんはどこへ消えたのか？廃業したけど幸せに生きてる人もいっぱいいるはずなのに、怖い話の方が耳にしやすい。</p>
<p>個人的には、会社の続け方をよく知っている社長さんは、実はご近所さんだったりする。あるいは親。うちは自営業に近かったから、それでだいぶハードルが下がっている。個人経営クラスの経営者って、周りにもいるでしょ？親の家業の雑貨店継ぎました、とか。そういう人たちの事業は、ITベンチャーで数人で回していくよりも大変なわけです。実際のお店を運営しなきゃいけない。だから、暗黙知をいっぱい受け継いでいるし、事例として自然に共有している。たとえば一番分かりやすいのは「有限責任だって言われてるけど、銀行にお金を借りたが最後、無限責任ですよ」とか。「何があっても税金だけは納めろ」とか。そういう、タテマエと現実の違いを乗り切る方法を、日本の地場の古い経営者の人たちはよく知ってる。</p>
<p>逆にいうと日本は、そういうことを熟知していないとスモールビジネスですら生きていけない世界なのかもしれない。起業の話をするんなら、続け方と止め方の話をもっとするべきだと思う。失敗した経営者さん達ってどうなったの？樹海に消えていったのか。よほど親しくしていない限り、その後は分からない。１０年２０年やってきた経営者の人たちだけが、そのリアルを知っている。それが起業というより倒産の恐怖を無意味に拡大させているようにも思う。</p>
<p>実際調べてみると、起業するよりも廃業するときのリスクの方がみえないものだ（脅しはよく耳にするけど具体的な事例は出てこない）。失敗しても生きていけるから不必要に心配しなさんな、と具体的に教授してくれる人がいない。倒産の方法を説明するサイトは確かにいっぱいあるけど、社長向けの話がほとんどで、経営者にこれからなるであろう人向けの内容じゃない。なので失敗に備えた過剰装備をすることになるんだけど、過剰装備を調えているうちに機を逸することの方が圧倒的に多いのだし、現実にそうなったら役に立たないから、どうしようもない。ほんとは成功するなら人もお金もあとからついてきて、自然に整ってくるのだろう。結果失敗するなら、どんな装備を整えていたって、じわじわと下降していく。対象となる事業にかける時間の長さは、そのまま自分の人生の残存量と比例しているのだから、どうせやるならパッと試してみて、成り行きを見守ってみた方がいいのだけれど、それができない。一寸先が闇。対策すら練れない。<br />
・永遠に存在する会社はない<br />
・失敗しても死ぬことはない<br />
というのは結構言われるけど、具体的にどうなるの？はみんな知らない。そこが問題なのです。国民性云々って言っても、起業する人はするわけだ。レールを踏み外した人は今のご時世どこにだっているんだし。そういう情報をこそ、ネット上でがんがん流すべきなんじゃなかろうか。起業の失敗情報をまとめるとか。</p>
<p>なんで「起業が増えていない」のは、実直的には収支計算して本当に無理だから諦めるか、起業してから廃業までが見えないから怖くて手を出せないのが現実のところで、それがこの国の起業を阻んでいる障壁であるように感じる。せめて「生きていけるな」と確信できるくらいのリスク計算手段を用意すれば、手元に現金がなくても起業しちゃう人は結構いるだろう。軒先で弁当売り出すとか。こんな時節だし一杯いるはず。だけど、未だに起業して失敗すると首を吊ることになる、が定説として流布しているうちは起業は増えない。肉体的にも、社会的にも、死ぬのはみんな怖いのだから。</p>
<p>しかし起業が増えていないというが、もうほぼ個人事業主に近い起業状態のマインドの人は多いんじゃないだろうか。派遣社員とかフリーターと呼ばれる類の人たちは企業に搾取されて云々っていうけど、自分の身の振り方を（サラリーマンよりは真剣に）考えなければならず、自ら行動しなきゃ死ぬという意味で、経営者と同じだからだ。ニートの人たちだって自ら行動しないと死ぬ状況にいないだけで、何かあったら自己責任を問われてしまう厳しい環境にいる。その意味において、個人レベルでは日本の創業ブームはとっくに来ているのかもしれない。組織にできないだけで、そこの敷居を下げれば、創業が一気に盛り上がる可能性はあるのかもね。ということもあって、僕はBIに賛成していたりする。</p>

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		<title>誰のためのデザイン？は真逆も考える</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/03/14/design-of-everyday-things/</link>
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		<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 22:16:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[iPhone & iPod touch]]></category>
		<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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		<description><![CDATA[
先ほど、Facebookからのメール通知を止めようとして設定画面を開いたら、計56個以上ものチェックボックスを外さなければならないことを発見して絶望したのです。これはちょっと酷い。


確かにFacebookには多種多 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>先ほど、Facebookからのメール通知を止めようとして設定画面を開いたら、計56個以上ものチェックボックスを外さなければならないことを発見して絶望したのです。これはちょっと酷い。<br />
<span id="more-190"></span><br />
<a href="http://www.shosira.com/wp-content/uploads/2010/03/facebook_mailsettings.png"><img src="http://www.shosira.com/wp-content/uploads/2010/03/facebook_mailsettings.png" alt="" title="facebook_mailsettings" width="500" height="714" class="alignnone size-full wp-image-191" /></a></p>
<p>確かにFacebookには多種多様な機能がついており、友人との連絡がFacebookを中心として成り立っているのであれば、56個ものチェックボックスでメール通知の有無を管理する作業は必要となるかもしれない。だが、付き合いと興味本位でFacebookに入り、月に1度程度しかログインしない人間にとっては「基本的に全てのメール通知がいらない」のが正直なところ。チェックボックスが50個もつき、それを一括変更できない状態というのは、たとえFacebookほどにSNSが巨大化していたとしても、現在のUIデザインでは考えられない事態のように思える。もし、あえて意図的につけなかったのだとしたら、その理由は何か。</p>
<p>ほぼ全ての項目は確かに、Facebookできちんと友達の環を作っているなら重要なもの。うっかり一括解除したがために通知に気付かない方が大変だ、と考えたのだと思う。しかし自分の場合、メール通知が必要なのは「メッセージを受け取ったとき」と「イベントの招待を受けたとき」の2つだけで、その他54個＋アプリの数に応じた通知を、ひとつひとつクリックで消していく羽目に陥った。それ以外は大して重要じゃない。たとえば極端な例を挙げると、友達として登録されたときの通知なんていらない。たまにログインしてチェックすれば十分。登録してくる人ほとんど知らないので、基本的に要らないのです。</p>
<p>ご存知ないのですよ！？（言ってみたかっただけ</p>
<p>僕たちデザイナーは頻繁に「自社製品中心ご都合主義」に陥りやすいことを自覚しなければならないのかもしれません。ユーザが使っているのは自社の製品だけじゃない。いろんなサイトを使って情報の洪水に溺れている中で、自社サービスしか使わないユーザなんて存在しないのに、どのサイトもが自社サービスを使うように強烈なアタックを仕掛け、ハードユースする理想的なユーザ向けのUIが提供されているというのは、少し考えものです。</p>
<p>だから、僕たちにとって都合がいいユーザの真逆を考えてみるのは、ひとつの方法論として有効だと思っているのです。使用時の状況を、もっと冷徹に思い浮かべる努力というのは、怠っちゃいけない。できれば実際に観察しに行きたい。だけど、例えば大半のiPhone Appで綿密なユーザ観察をしようとすると恐らく大赤字になる。そんなときの思考実験の方法論として、あえて自虐的な厳しい視点を設定してみるのは、ユーザへの甘えを取り除く上で非常に大切で、理想的になってしまいがちな仮定を捨て、ラフな使われ方だったとしても、サービスをその行為の中でスムーズに組み込む努力を怠らないことが、ハードユーザの体験をも向上させたりもするのだと思います。</p>
<p>そうやって開発側が想定するライトユーザというのが、実は一般的なハードユーザの使い方に近いものだったりするからです。いろいろと開発側にとって理不尽な事態というのは、実に簡単にユーザの周りで起きる。作業を中断するとか。途中で別のことを始めてしまうとか。ユーザストーリーを設定してしまうと、そういったソフトウェアにとってはイレギュラーだけれど、現実の生活ではごくごくレギュラーな要素が見えてこないことが多いように思います。Music Aliveを作っていて、それは痛切に感じたことのひとつ。例えば1.0では、途中で電話がかかってきた場合、という想定がすっぽり抜け落ちていた。</p>
<p>あるストーリーを作ってみたら、あえてそこから外れてみる。例えば、両手で使うとして、という想定があったとして、じゃあ片手だったら？と尋ねてみる。そういうのは方法をうまく確立すれば、ある程度は洗い出せる。無意識に前提としていることを、どれだけ意識化できるか。イレギュラーなレギュラーに気付くにはどうするか。今の僕には果てのない課題です。</p>
<p>そういえば話は少し違うが、光回線などの解約手続きといい、クローズ型SNSといい、退会のハードルを故意に高めることで退会率を下げる試みは今も王道だけれど、あれは企業にとって麻薬みたいなものです。何らかの理由で退会手続きを行おうとして一度怒り心頭になったユーザは、その会社の名前を記憶し、以後そこのサービスを使うことはない。例えば以前Yahoo BBで心底嫌な目にあった僕にとって、iPhoneを使うためにソフトバンクを選ぶことは苦渋の選択だったし、加入後、既に３回か４回程度、こめかみに青筋が立っている。ソフトバンクの携帯に関する以外のことでここ数年、そこまで感情的になる事態が起きたことはないのです。あれも、なんとかならないものかといつも思います。</p>

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		<title>セカイカメラなどが削除された件（PlaceEngine周りのお話）</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/03/05/sekaikamera-has-been-banned/</link>
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		<pubDate>Thu, 04 Mar 2010 17:47:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[iPhone & iPod touch]]></category>

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		<description><![CDATA[
セカイカメラAPIの説明会開催日にAppleは、セカイカメラを含むPlaceEngine（Wifiを通して位置情報を取得する技術）を利用したアプリをApp Storeから一掃した。セカイカメラさんからすると非常に嬉しく [...]]]></description>
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<p>セカイカメラAPIの説明会開催日にAppleは、セカイカメラを含むPlaceEngine（Wifiを通して位置情報を取得する技術）を利用したアプリをApp Storeから一掃した。セカイカメラさんからすると非常に嬉しくないタイミングで、Appleが水を差したことになる。またか！と騒ぐ前に一考したい。</p>
<p>まずは可能性を列挙してみよう。<br />
1. Appleさんの提供しているAPIの範囲を超えたグレーな実装方法だったのが、やっぱりブラックだと認定されてしまいましたなう。<br />
2. 「広告を表示するためだけに位置情報を取得するアプリは禁止です」という、最近話題を呼んだAppleの表明が実行に移されたなう。<br />
3. 今後のビジネス領域に重なるので、競合事業者を排除したなう。<br />
さて、どれだろう？<br />
<span id="more-160"></span><br />
一番有力なのは、やはり1番目だ。Private APIを利用していたのがNGとなったケース。PlaceEngineは、簡単にいうと周りにあるWiFiのアクセスポイントをActive Scan（自分から取得しにいくこと）して、BSSID（MACアドレス）とSSID（Sub Station ID：アクセスポイントの名前）、RSSI（受信信号の強度）の３つの情報を取得している。PlaceEngineがActive ScanにPrivate APIを利用しており、それがこれまでは黙認されていたけどやっぱりNGになったと考えると合点が行く。時期的にみても、新バージョンのiPhone OSが出される直前に、SDKの運用基準が厳密になった可能性は高い。<br />
関連記事：<a href="http://www.theregister.co.uk/2010/03/04/wifi_stumbling_iphone/">http://www.theregister.co.uk/2010/03/04/wifi_stumbling_iphone/</a></p>
<p>当該アプリの開発者（というか、この場合はPlaceEngineを提供しているクウジットさん）は公式のAPIを使用したものに書き換え、再度審査を申請することになる。たぶん今頃徹夜しているのではないかと思われます。回避策があるのか、ちょっと不明。頻繁に利用されるアプリが多いだけに、影響は大きい。</p>
<p>ちなみにPrivate APIを利用していたアプリが審査に通らないケースはこれまでも頻繁に報告されており、真新しいことではない。僕たちはこのケースで削除になるリスクを考慮し、Private APIを利用しない方針で開発をしている。</p>
<p>気になるのは2と3だ。PlaceEngineなどの位置検出技術が、Appleの事業戦略と重なった可能性。何ともいえないが「ロケーション広告を単純に表示するだけのために位置情報を取得するのは認められないよ」というAppleさんの表明が実行されたのであれば、iButterflyが削除されてても良い気がするのでリトマス試験紙をそこに貼っておくとして、それだと残る可能性は3である。</p>
<p>ロケーション関連が将来的なAppleのビジネス領域に重なるか重ならないかといえば、はっきりと重なることは誰の目にも明確である。Appleは、適切にプライバシーコントロールを行いつつ、デバイスと密接に連携した制御をすることによる優位性の確保と、一次情報の囲い込みを狙うことができる。</p>
<p>まとめると削除理由としては1、その背景に3があって、Appleさんは着実にロケーション情報を提供するAPIを準備中、といったところだろう。ただし2も関係がないわけではないだろう。以上、僕は当事者ではないので、あくまで推測ですが、後日クウジットさんから公式の説明があるのではないかと。ケーススタディの価値は大いにあるので、今後とも注視していきたいところです。</p>
<p>と、ここまで書いたところで、クウジットさんが協力しているブラタモリがApp Storeに残っていることに気付いてしまった。はてさて（おそらく、クウジットさんが協力してはいるが、PlaceEngineは使っていなかったのだと思われる）。</p>
<p>3月9日追記：クウジットさんが、PlaceEngineを外してアプリを再審査に出すよう、各アプリのデベロッパーさんに提案したと表明したみたいです。流石に無理だったみたい。<br />
<a href="http://www.koozyt.com/press/2010/news100306.html" target="_blank">http://www.koozyt.com/press/2010/news100306.html</a></p>

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		<title>身体性を目覚めさせるためのAR、Architectural Computing宣言</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/02/27/architectural-computing/</link>
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		<pubDate>Fri, 26 Feb 2010 20:09:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[Architectural Computing]]></category>
		<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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		<description><![CDATA[
ARの会社、などと紹介されながら、全くARらしくない事業展開をしていることに説明を求められる機会が増えてきた。私たちの考えるARとはどのようなものなのか。ARというジャーゴンが普及し始めている中で、どのような立ち位置を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>ARの会社、などと紹介されながら、全くARらしくない事業展開をしていることに説明を求められる機会が増えてきた。私たちの考えるARとはどのようなものなのか。ARというジャーゴンが普及し始めている中で、どのような立ち位置を取り得るのかについて表明しておくことは重要であると考えられるので、この場を借りて表明しておく。</p>
<p>ARとは本来、グラストロンをかけて観ている場合にいえるもので、カメラを動かしたときに画面上でみえるものは拡張現実のようであって、そうではない。それは完全なる虚像である。グラストロンをかけたときとの身体性と、カメラでみるときの身体性は本質的に異なるものである。画面を手を動かして見るという行為は拡張現実にはなりえていない。観るという身体性は目によって実現されるものであり、手でなされるものではない。現在もてはやされているものはARではなく、ARToolkitを用いたViewerである。ジュラシックパークの恐竜たちと違うのは、カメラの座標点と連動しているというだけのことで、そこに新規性はほぼない。<br />
<span id="more-155"></span><br />
例えば、Wiiリモコンと今までのコントローラーの違いを考えてみよう。バットを振るために、ボタンを押すという行為と、Wiiリモコンを振る、という行動を考える。いずれのインタラクションも結果は同じだが、過程における体験が本質的に異なる。<br />
　既存：座標系を、ボタンを通して射影（座標変換）されなければならない。<br />
　AR：その行為を中心とした座標が、現実と仮想空間とで同一である。<br />
ARでは自分が行った身体的な行動によって、同一座標面上に何らかのActionが発生する必要がある。その意味において、現在もてはやされているARは、身体的な動きを反映したシステムとはなっていない。もしそこに何らかの身体的フィードバックがある、たとえばキャラクターがいて、そこに指を出すと反応する（画面をタッチするという意味ではない）ようなシステムがあれば、そこでARが成立しているということは恐らく可能であろう。</p>
<p>そしてこれこそがさらに重要なことだが、ARによって身体性を拡張する、というのも違う。身体性を目覚めさせるためのコンピューティングこそ、本来必要な指向性である。「身体性を拡張する」という表現には、身体性は常に自覚的にコントロールされているという暗黙の前提があるが、それは全くの誤解である。私たちはそのシステム上、身体性のほとんどを無意識的にコントロールしているのであり、それを自覚的にコントロールすることなどできていない。盲点や錯視を考えれば、自明であろう。この前提に依るべきである。</p>
<p>言い換えるとARは、自覚的に単純化された行為を、さらに単純化・効率化するための技術ではない。ここでいきなり単純化というキーワードを出したが、これは技術者は基本的に作業の効率化と構造化を志向していることに依拠する。線を一本描く作業をOpenGLで為し得ようとすれば、フレームバッファを初期化し、座標系を調整し、アルファチャンネルの有無を決定し、というように、大量のコーディングが必要になる。それがGUIの一般化によって2クリックで終わるようになった。技術者は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、そうした美徳を好む人種である。つまりプログラマーは、現在起きている事象を簡潔にすることを目標として動いている。</p>
<p>例えば、Webの志向は単純化にある。コラボレーションができる、中抜きができる、といったWebの利点は、社会システムを再度単純化し、古代的な1to1のアプローチを復活させたところに価値が生じた。その典型がTwitterである。Twitterは共同体的でありながら個別にコンタクトを取り得る村的コミュニティの形成に適している。</p>
<p>しかし極限までの単純化は、複雑性への回帰をもたらす。ある社会における行動はパターンナイズされているように思える。だが、個別の行動基準で考えれば、それは多様で無限に複雑化された世界だ。例えば今のGoogleがそのような道筋を辿っている。1clickで検索できるというパターン化は、それを個別のパーソナルな検索という基準に落とし込み始めた時に崩壊した。Simplicityの先にある複雑性への先見が必要である。</p>
<p>単純化は同時に、人をたやすくパターン化のサイクルに落とし込む。ググれば出てくる、という事象をみて、人間は馬鹿になったのか、という問いが出ている。レポート、クイズの答えを検索して、その検索結果が世界の全てだと思った人がいる。だが、実社会における問題はそんな容易い問題ではない。そこで壁に突き当たる。ハルヒの絵をググることは可能だが、ハルヒの絵を描くことは難しい。何らかの行為を要求された瞬間に、人間的な性質や経験値が大きく問われてくる。How toは手に入るが、その先のActionは完全に人間の身体的な記憶に依存してしまう。</p>
<p>どんなにデジタル化をしようとも、知識・経験・記憶から人は逃れられない。あなたの世界はあなた自身が創り出すものである。デジタル化で人は馬鹿になるのではなく、何もしていないだけである。また、他者の記憶・経験に基づいて記録されたコンテンツが大量に存在するが故に、そのコンテンツを消費する行為をし続けると、完全なる傍観者になることができる。何も為さずとも生きていける状態が発生する。これがいわゆる象徴の貧困と云われている現象である。他者のストーリーを傍観（消費）し続けるだけで、自分の人生が終わるのだ。永遠の観客の先に人間的で文化的な営みや、記号的飛躍は起こりえない。</p>
<p>だから我々は身体性を取り戻さなければならない。言い換えれば、ただ傍観者になるのみならず、何かのActionを為さなければならない。コンピュータは、それぞれが自分の人生を歩むための劇場や箱ではありうるが、それは観客席なのではない、はずである。今のコンピュータには、人が、これは私のための舞台であり、劇場なのだと自覚し、演劇を営むための装置、つまり象徴の貧困を回避するための枠組が決定的に不足している。How toの先のActionを誘発することこそが、真のコンピューティングの根幹にあるべきだと考える。僕ら（サイフォン）はそれを、Architectural Computingと呼びたい。</p>
<p>そうした思想の中で、ARは身体性を意識化し、人が何かを為すための一助ができる可能性があると私たちは考えている。このような観点に基づいた私たちなりのアプローチについては、また近日、お知らせできるかと思う。</p>

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		<title>iPhoneが駄目ならAndroidがあるじゃない</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/02/22/iphone%e3%81%8c%e9%a7%84%e7%9b%ae%e3%81%aa%e3%82%89android%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%81%98%e3%82%83%e3%81%aa%e3%81%84/</link>
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		<pubDate>Mon, 22 Feb 2010 00:57:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[iPhone & iPod touch]]></category>

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		<description><![CDATA[
前回の記事「グラビアアイドルアプリ一斉削除に感じるAppleの展開戦略」にはわずかながら反響があったようで、実際に被害？にあわれた会社さんの方なども読んでくださった模様。「ご退場くださいとか酷いですぅ」などと思われてし [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>前回の記事「<a href="http://www.shosira.com/2010/02/20/bikini-app-syndrome/">グラビアアイドルアプリ一斉削除に感じるAppleの展開戦略</a>」にはわずかながら反響があったようで、実際に被害？にあわれた会社さんの方なども読んでくださった模様。「ご退場くださいとか酷いですぅ」などと思われてしまったようなのですが、断っておくとあれはあくまでもジョブズならそう言いかねないってことです。実際、僕たちがグラビアアプリをやっていたら、今頃「もうゴールしても良いよね。私がんばったよね。」と言いながら、悲しみの血の雨を降らせているに違いない。だがしかし、モバイルアプリ事業者を標榜するあなたには強い味方が登場する。<br />
<span id="more-140"></span><br />
それは誰かといえば、もちろんGoogle先生だ。Google Androidにはそうしたルールは今のところ存在しないから、えっちいお姉さんが大量に登場するようなコンテンツを掃いて捨てるほど持っている事業者の人はそちらに移行すればいいだろうと思う。単に、それだけの話だ。iPhoneユーザの男性を悔しがらせるような、えっちぃコンテンツを花開かせればいい。今ならがっぽがっぽであろう。フォロー終わり。</p>
<p>前回の記事で言いたかったのは、オープンプラットフォームと呼ばれるような環境であっても、Appleのような事業者の場合はコンテンツの峻別が常に行われている、ということだ。Appleはユーザ・エクスペリエンス・デザインを最も大事にしている会社である。彼らは常にそうした観点から観察しており、害悪だと思えば切り捨てる。そのためにわざわざコンテンツメーカーにお伺いを立てるくらいなら、一方的に削除した方が経営資源を効率化できる。大変なのはコンテンツメーカーだけれど、最初からAppleはその方針を示している。iPhone市場にいるなら、常に切り捨てられる覚悟とリスク対策がいる。僕はそう言いたいだけだ。Appleの方針や方法が正しいかどうかなんて、僕の知ったことではないし興味もない。もしそれが嫌だというなら、プラットフォーマーを目指すべきだ。そのリスクを、AppleやGoogleは背負ってくれていることを、僕は肝に銘じておきたい。</p>
<p>ただもちろん、表現の自由や、セクシュアリティへの感受性が国によって異なる、という側面には、もちろん興味がある。アニメはクールだが、苺ましまろをアメリカの一部の人たちの前で見せれば、僕はもしかしたら逮捕されるか、サタンの使者だなどと言われてリンチにあうかもしれない。場所が場所なら、これは９割方起こりうる。宗教に対して寛容であることが信条の日本人には分かりにくい感覚ではあるが、個別の配慮をどのように行えばいいのか、というのは実に由々しき問題である。が、まぁ長くなってしまったので、えっちぃお姉さんとかわいいは正義！をデジタルでグローバルな世界で、文化的にどのように扱えばいいのかは、また別の機会に放出することにしたい。</p>

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		<title>グラビアアイドルアプリ一斉削除に感じるAppleの展開戦略</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/02/20/bikini-app-syndrome/</link>
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		<pubDate>Fri, 19 Feb 2010 16:22:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[iPhone & iPod touch]]></category>
		<category><![CDATA[Apple]]></category>
		<category><![CDATA[iPhone App]]></category>

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iPhone Developerのひとりとしては「怖ぇええ」が先にきてしまいそうにはなるけれども、それでも僕は、Appleはそれなりに適切な判断を下したのではないかと考えている。暴挙だとか、横暴だとか、基準が分からない [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>iPhone Developerのひとりとしては「怖ぇええ」が先にきてしまいそうにはなるけれども、それでも僕は、Appleはそれなりに適切な判断を下したのではないかと考えている。暴挙だとか、横暴だとか、基準が分からないことに対する萎縮効果であるとか、いろいろマイナス要因は指摘されているけれども、それこそがAppleの戦略だと考えるべきだ。そのメッセージはこうである。Appleのようなクールでスタイリッシュな製品に掲載するには後ろめたさを感じるようなコンテンツのホルダーは、どうぞご退場ください。<br />
<span id="more-137"></span><br />
Appleは、iPhoneで世界を鎮圧しようなどとは考えていない。Google Androidは恐らく今後、iPhone OSよりも大きな市場になるだろう。あのWindows 95戦争のときと違うのは、今はAppleは音楽市場を制した巨大なメディア企業でもあるということだ。そして次は、電子書籍市場をその射程におさめつつある。それで十分に今後成長が見込める。</p>
<p>オープンプラットフォームに対する戦略として有効なのは、そこに魅力的なコンテンツを維持し続けることである。ファッションに喩えると分かりやすい。Androidがユニクロだとしたら、Appleが狙っているのはZARAとか、少し上だけれども一般向け、くらいの層だ。App Storeは全てのコンテンツホルダーのためのオープンプラットフォームではない。Appleのブランドイメージの射程に合致する優良コンテンツを保持するホルダーのための選ばれたプラットフォームである。</p>
<p>となれば、長期的には多少高くても顧客が支払おうと思うアプリを作り続けられる実力、体力、センスを持ったコンテンツホルダーを育て、選別していったほうがいい。センスを持った開発者であれば、不当に値段を下げることもないし、たとえ短期的に下げたとしても生き残るだろう。低価格競争でまず最初に淘汰されていくのは、実はコンテンツ制作能力の低いデベロッパーである。</p>
<p>これは顧客にとってもメリットがある。アプリを購入するという経験に慣れるためのコストは、最初は低い方が良い。長期的にはアプリの単価は上がっていくだろうが、その頃には優良なコンテンツの提供者の割合は劇的に増しているだろうし、安心してお金を払うだろう。</p>
<p>そして、そうした時に最も収益性の高いアプリだと彼らが考えているコンセプトのひとつが、iPad登場時にJobsが示した「Liberal Arts」というキーワードなのだろう。スタイリッシュでクールでリベラルなアプリを出すためには教養が必要であり、ウィットに富んだ深い知性と洞察力が必要になる。だからもしこの市場で残りたいのであれば、何が売れるかではなく、何がユーザを、スマートで、クールな方向に導くかを考え続けることだ。iPhone市場では結果的にそれが勝ち残る唯一の方針であると僕は思う。</p>

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		<title>ART apps collectionはARTなのか、は現在進行形で問われている</title>
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		<pubDate>Sun, 07 Feb 2010 16:25:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[iPhone & iPod touch]]></category>
		<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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ART apps collectionというArtyなアプリを紹介するイベントが、現在国立新美術館で開催されている文化庁メディア芸術祭のギャラリートークとして開催されていたので軽く顔を出してきた。iPhone関係のいろ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>ART apps collectionというArtyなアプリを紹介するイベントが、現在国立新美術館で開催されている文化庁メディア芸術祭のギャラリートークとして開催されていたので軽く顔を出してきた。iPhone関係のいろんな人が参加していたみたいで、TwitterのTLにも幾つか参加している顔がちらほら。<br />
<span id="more-126"></span><br />
個人的な感想を述べるならば、商業的で「アーティな商業ソリューション」と、実際にこれはアートであろうというアプリと２種類あったようで、前者に対する違和感が会場を包んでいた時間もあったように思う。僕はiPhoneアプリを作っている側で、コンテンツ産業に片足突っ込み始めている人でもあるんだけど、この辺りの違和感を正直に表明し、少々突っ込んで検討するのには（それはとても馬鹿だけれども）誠実でありたい。</p>
<p>全ての人の手に表現の道具が行き渡りつつある現在、いわゆるホワイトキューブに展示されるべき「アート」という概念は崩れ始めており、「なう」なアートとそうでないものを区別するのはますます困難になりつつあるから、無下に前者を全否定することはできないし、プラットフォームを作ってアーティストのための機会創造を行っているのは、とても大変ことだ。これは今実際に仕事にしているからこそよく分かる。</p>
<p>のだが、アート的なもの、と、アート、はやっぱり違う。アートとは何かという問いに対して「あえて緩やかな境界しか設けない」ことが、アートを向上させるかといえば、そうではないから、あえて区別することをここでは厭わない。ルールが存在するからこそ、アートが成立している。ここでいうルールというのは僕たちが普段から使っているルール、言語とか文化とか、そうしたみんなに共有されている価値基準そのものだ。現代芸術には、細分化されているものの、明確なルールが根底に基準として存在する。アーティストに求められているのは、このルールを更新し続けることだろう。だから今現在のルールが何なのか、見極める能力がアーティストにも、それを育てる側にも求められる。ではこの国において、アーティストの庇護者はルールを明確に理解し、それを超えたことを分析できるのか。実質的には、「コンテンツ産業」を庇護するために、アートというラッピングを施していると揶揄されても、たぶん誰にも反論ができない。それが、この国の文化産業の弱さなのかもしれない。</p>
<p>今日出てきた「ART」なアプリが「ART」であるためには、「ルールをこのように更新したのだ」という主張が認定され、それが作品に接した者にも無意識的にでいいから理解されなければならないと思うのだが、その過程をさっぱり無視して「アート」だと自己主張するから、違和感を感じるのではないだろうか。</p>
<p>言い方を変えると彼らは表現において、どのような「その発想はなかった」を意図的に観衆に言わせたのか。それを問うて初めて、あれは「アート」だったと言えるのだと感じている。時を経て問われ続けるものもあるし、一刀両断されるものもあるだろう。ART Appsが果たした成果を見守っていくのは、とても楽しみである。</p>
<p>その上で、前述の話題に戻ると、プラットフォーマーがアーティストのための環境整備を自任するならば、アートやアーティストにどう貢献できるのか？彼らの行為を理解した上で場を用意することができるのか？は激しく問われることとなるだろう。アートのためのという冠がついた途端に、そこはTwitterやFlickr、YouTubeといったCGMの延長上にはない特殊な空間を用意した、という性格を帯びることとなる。現代の美術館が「場」の性質の根源から「美術館美術」などのワードで厳しく問われるのと同じように、常に問いかけが必要になる。そうした意識を持つべきか否かを含めて、ART Apps Collectionは議論を呼ぶ出発点としての「場」ではあったように感じたのだが、いかがだろうか。</p>

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