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電子書籍の衝撃:電子書籍の「制約」が見えない

先日「電子書籍の衝撃」という本をようやく読みました。読みながらTwitterに、ちょっと違和感がある、という呟きをちらっとしたのだけど、どうしてそう思ったか、少しだけフォローしようと思います。

書籍が電子化されるというのは、よく考えてみると、とても奇妙な表現です。文章を書き、それを印刷物にし、流通させる。その中で最もハードルが高く、そしてそれ故に、編集という価値が最上のプレミアムとして付加される、という社会の共通認識があったもの、それが書籍です。そして、その区分、雑誌なのか本なのか、といった境界を決めてきたのは、流通や技術という物理的な制約です。そして編集という行為は、メディアというコンテナに、テキストを正しく載せて送り出すための作業であり、それぞれのコンテナに合わせて特化された職能として規定され、機能してきた。実際、新聞記者、雑誌編集者、文芸書担当、それぞれに「編集」の意味合いは、おそらく微妙に異なると思われます。

しかし、電子の海では、そのような区分がありません。短い文章だろうと、長い文章だろうと、同じコンテナに載ってしまいます。そこで何が起きたか。最初、私たちは区分という記憶をデジタルに転写することから始めました。その原型はHTMLの仕様に窺うことができます。インターネット初期、誰もがまずは手紙を電子化するところから始め、次に章立てされた原稿の執筆を試みた。慣れるにつれて、それらはゆるやかに溶け合い、意識されることは少なくなった。紙や流通という制約から解き放たれたが故に、区分が分解されていった結果、制約もなくなった。結果、生まれたのが今のウェブの状況といえます。結果、編集という過程もフラットに分解され、アンビエント化した。今、ウェブ上の編集は目に見えません。編集が遍在化しているからです。編集ができないのではなく、されていないのでもなく、昔のようには可視化できない。

そして現在、ウェブ上で行われているのは、フラット化した「書く」という行為をもう一度見直し、電子化された中で知的探求を行う可能性を探す、制約の模索です。言い換えると、自由だからこそ、あえて制約を課す作業を行っているのです。フラット化の果てに、制約の必要性に私たちは気づいた。メールマガジンという制約、blogという制約、140字という制約、携帯小説という制約。新しい制約を提示することが、コンテンツを生み出す時代になっています。制約を提示するからこそ、創造性が保証される。制約に基づいた創造を行い、制約の更新を行うことが、全ての知的活動の基本原則にある、というのはネットの時代も変わらない。知的作業におけるプラットフォームとは、新しい制約のことです。

書籍という制約は、電子の世界で保てるのだろうか?残念ながら電子書籍という定義に制約がないのであれば、今までのネットがそうであったようにいずれ溶け出して行くでしょう。そこに、明確な制約を定義した人は生き残れるし、そうでない人はネットの海に埋没せざるを得ない。それこそが電子書籍の衝撃なのではないか。そう思います。

今日はもう長めになったので止めますけど、流通の話ばかりに気が囚われて、そうした電子書籍の制約に関するお話がなかなか出てこないのが、個人的には気になるところです。続きは気が向いたら。

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