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デザイントーク

“UD”スプーンに感動したあとで絶望した話

UDライススプーンという、左右非対称な形をしたスプーンがあります。僕の会社のある三鷹近辺だと、AZ DININGというイタリアンのお店で実際に使うことができるのだけれど、これが劇的に使いやすい。これまでのスプーンは一体何だったのだと思うくらいに。液体をすいすい掬えて、非常に心地よくご飯を食べられます。 http://www.amazon.co.jp/dp/B002QXMD2M/ 31sh+hltHeL

ただ、このスプーンにはひとつの盲点があって、右利き用・左利き用が明確に分かれているのです。自分の利き手にそぐわないスプーンが出てきた場合、途端使いづらいものになる。お客様の素振りをみながらさっと利き手を判断して提供するスプーンを変えていたら素晴らしいのだけれど、それをランチタイムという戦場でいざ提供しようとしたら、なんと大変なことか!

先に前菜を提供して、フォークで食べている様子を見ながら利き手を判断しましょうか。なら、ヘタをするとスプーンは後出しで、料理と一緒に提供しなければならないかもしれません。しかし、そうなるとフロアには、一体何人がいればいいのか。あるいは両方のスプーンをバゲットに入れておけばいいでしょうか。でも、どちらが自分の利き手にあったスプーンなのか、お客さんに判断を任せてしまって本当に大丈夫か。ヘンリー・ペトロスキーが指摘しているところに従えば、

“形は失敗にしたがう” (フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論)

わけですが、ここでいう形には、その道具が置かれる場や人の”形”があるのだろうと強く思います。一見合理的で使いやすくみえるものが雑貨屋にいけばあふれていて、どれもこれも素敵なものばかりです。しかしそれも、運用、つまり使われ方ひとつ間違えればダメになる。UDというコトバの範囲はそろそろ、人とものの間の関係性を超えたところ、人と人の関係性や、それがおかれる場、といったところまで、広げて考えなければならないのかもしれません(という意味において、僕はメディオロジーに注目している)。

そもそもが、今”使いやすさ”とは何なのか。柳宗理のカトラリーの販売が始まったのが1974年ですから、今年はちょうど40年になるわけですが、あのスプーンと、このスプーンとで、何が変化しているというのか。たかがスプーンでも、それを変えたことによって顕になる、それが成立してきた土壌の奥深さ。いきいきと掘り出していきたい今日この頃です。

P.S. ブログ再開といいつつ1ヶ月経っている件について猛省したいです。

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徒然日記

ゲームセンターと外との接続性をARでどのように作るか

ARでゲームセンターに人を呼び戻すことができないか?という三宅さんの記事がきっかけとなって、twitter上で議論が盛り上がっていました。

「AR(拡張現実) × アミューズメント施設、ゲームセンター」で人を集めよう!
http://togetter.com/li/17203

なんとなく議論に参加しているうちに、いろいろ着想が出てきたのでまとめてみます。

そもそもARとは何か?
前にもblogで記事にしたんですが、カメラを通すと3Dで何かを表示する技術、というDisplayのところだけを切り取ってくると発想が活かしきれない。3Dを重ねるだけなら、Realtime Tracking and Matchmovingとでも言った方が良さそうです。なぜそれが、Argumented Reality、という名称で呼ばれるのかを押さえておきましょう。

ARでよく描かれる、スーパー未来はこんなものです。まずはわくわくしてください。

ARは、人間の認識を拡張することを目的として発展してきました。人の認識能力には、いろいろな特徴があります。視覚でいえば、錯覚がその良い例だし、ゆるやかな変化には気付きにくかったりする。そうしたときにコンピュータがうまくサポートしてあげることで、人の認知・情報処理能力を高めよう、というのがARの前提にあります。だから例えば、昨今の「AR」からは、ちょっと外れたARをお見せすると、こんなのがあります。

突いたボールがどう転がっていくかは人には認識するのが難しい。だから補助線を表示しましょう、というもの。立派に現実感を拡張し、情報処理能力を強化しています。重要なのは、視覚に重ね合わせるように表示することで「認識が拡張されること」なのです。加えて言っておくと、前者の映像は静的な情報を拡張していて、後者の映像は、動的な情報の拡張を行っています。

ARでは
・どの情報を指し示すと有効なのか(静的・動的)
・どのように表示すると、より分かりやすく視覚的に認知可能なのか
を検討する必要があります。

ARでゲームセンターを拡張しよう
以上の前提に立つと、エヴァ屹立は果たしてARなの?という疑問が沸き起こってきます。ただ、現実空間に架空のキャラクターをおくことで、場の意味を新たに作り出してしまうような方向性も重要だと僕は思っています。特に日本人には親和性の高い話でしょう。日本人が古来から行ってきた「見立て」の延長上に、昨今のムーブメントがあるように感じるからです(ただし、それをどう取り扱うかは、考慮の余地がありそうです。恐らく重要な意味があるのです)。ここでは、認識の拡張という前提に立ち戻った上で、場の見立てを考慮にいれながら、ARとゲームセンターの可能性について考えます。

三宅さんの問いは、ARでゲームセンターに人を呼び戻すことができないか?というものでした。blog+Twitterで出てきたアイデアの目指している効果は、以下のように分けられるものと考えられます。
・ゲーセンで何が起きているかを「外に」伝えること
・ゲームをゲーセンの「外に」拡張すること
・ゲーセンという場の意味を変化させること(外にいるときにもゲーセンの意味があること)
によって、ユーザがゲーセンに入ってゲームをしようと思うこと(ここが重要)。

ちなみに僕はあまりゲーセンに行かない人間なんですが、なんでゲーセンに行かないかというと、
・ゲーセンまで行くのが面倒
・操作が分からない(例えば僕なんかは格闘ゲーム触れません、怖くて)
・みんなで行くことが難しくなった
・ゲームなら、手元で出来る
ことが挙げられます(ざっとですけど)。

@mutsubeさんや@CakeTwtさんのご指摘通り、僕はTLを読んでいるうちに、これはゲームセンターという機能をどう拡張するかという問題なのではないかと考えましたが、その発想の原点には、どうやったら、今のゲーセンが抱えるこうした問題を解決できるのか?という視点があったりします。言い換えるならば、ゲームセンターという場をもう一度、今の技術を踏まえて設計し直してみると、どうなるか。これをちょっと考えてみたいのです。

ゲーセンとの距離と場所に応じてゲームの意味が変わること
まずは最初の、いろいろと面倒だという問題から。ゲーセンまで行くのが面倒だけどゲームはやりたいという欲求を満たすために、みんなPSPだのDSだのはやっています。ならば携帯とゲーセンをリアルタイムに結び、さらに見立てを導入する。iPhoneなら、かなりリッチなゲームを用意することができます。

DSを持ち込むことでゲーセンに行く価値が、という発想はあったと思いますが、ただ単につないだんじゃゲーセンに行く動機が生まれない。だから、その距離感や場に意味を持たせたい。ならば、ゲーセンを前線基地、iPhoneを補給部隊や後方支援基地として定義するような発想のゲームはありうるんじゃないかと思うのです。その上でリアルタイム性というのは、ゲームの世界の時間軸を同じにして、ゲーセンと携帯とをきちんとつないであげるためにも重要な要件だと感じます。あそこでみんな戦ってるんだぜ!でも僕はゲーセンには行けてないから、外から支援するぜ、という見立て。

もちろん、今のブラウザアプリのように、普段は体を鍛えたり農作物を育てたりしていて、ゲーセンに行くと試合ができたり、結果としてのゲームができるというのも、ありでしょう。

その上で、ゲーセンで今プレイされている様子を直感的に示すために、ARを施す。ゲーセンの方をカメラでみると何やら巨大なロボットが動いていたり、戦闘の様子がみえたりしたら、これはちょっと面白いかもしれません。しかも手元でプレイに参加することでリアルタイムに見える景色が変わるとしたら、ARの意味も十分出てきます。

みんなで出来ること=ゲームの視点を変えること
役割やゲームの方向性を微妙に変えてあげることで、ゲーセンでゲームをしている当事者とゆるやかにつながれる、というのは結構大事な視点なのではないかと思います。あるいは個々のプレイヤーの役割を、筐体と携帯で分けて考えてあげる。MMORPGでずーっとアイテム集めだけしてる人とかいますよね。あの緩さが大好きなんです。

@miyayou だとすると、Social+ARで、ゲームセンターの中と外でインタラクション考えると面白いですね。渋谷のゲーセンにいるんだけど、誰か、こっちに向けてエナジーパック撃ってくれー!!とか。http://twitter.com/shosira/status/12953975677

他にはたとえば、カップルでゲーセンに来ていて、彼氏がレーシングゲームをしていると彼女は遊べません。戦場の絆という話がありましたが、あれは同じ視点に立つゲームですよね。みんながみんな同じ操作に熟達できるわけじゃない。そこへの配慮が、今のゲーセンでは欠けているような気がするのです(僕は結構、横で観ている派なのでよく分かる)。だから、普段慣れ親しんでいる携帯で、ゲームセンターでゲームが楽しめるようにするのはインタフェースとしてアリだと僕は思います。
・ある筐体ゲームの横で、同じタイトルのミニゲームを筐体のプレイヤーと連携して楽しめる。

その上でARをどう使うか。たとえば、
・FPSしている人の横でiPhoneカメラを構えて、アシストの役割をする。
 (CCさくらでいうところの、ケロちゃんじゃないか!)
・渋谷のゲーセンにいるんだけど、誰かエナジーパックこっちに撃ってくれー!という依頼に応える
というものは考えられそうです。それなら、ゲームが得意じゃなくても出来るし筐体を大掛かりにする必要がない。

まとめ
僕自身は、今のゲームセンターと日常の接続性をどのように作るか、というのが問われていると思っています。そのときに、ゲームセンターや携帯ゲーム機の存在(意義)を、ロケーション、人、あるいは人々の関係、動機によって、動的に変えながら提案していくことが重要な切り口になると考えています。MMORPGをリアルの場に持ち込むにはどうしたらいいか、というと分かりやすいかもしれません。

・ゲーセンという場そのものに固有の意味を与えて、外部からゆるやかに接続させる。
・ゲーセンの中にゲームの世界が広がるのではなく、ゲーム世界の特異点としてゲーセンがある状態を目指す。
・多視点を許容するために、筐体以外の人々が持っているデバイスを使えるようにする。

その上で、場所と役割に応じた見立ての提示手段としてARを使う。そんなゲームの開発はとても難しそうですが、やる価値はあるのではないかと感じています。その着想からARを最大限活用する、というのは、とてもわくわくできることのように思えました。もっといろんな議論が出てくるのが楽しみです。

最後に参考記事として、ASCIIの記事も掲載しておきます。特に5〜6ページ目付近は、よく読んでいただきたい内容です。

本当の「AR」とは? ARの歴史と未来の姿を追う!
http://ascii.jp/elem/000/000/514/514146/

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デザイントーク

電子書籍の衝撃:電子書籍の「制約」が見えない

先日「電子書籍の衝撃」という本をようやく読みました。読みながらTwitterに、ちょっと違和感がある、という呟きをちらっとしたのだけど、どうしてそう思ったか、少しだけフォローしようと思います。