ART apps collectionはARTなのか、は現在進行形で問われている

ART apps collectionというArtyなアプリを紹介するイベントが、現在国立新美術館で開催されている文化庁メディア芸術祭のギャラリートークとして開催されていたので軽く顔を出してきた。iPhone関係のいろんな人が参加していたみたいで、TwitterのTLにも幾つか参加している顔がちらほら。

個人的な感想を述べるならば、商業的で「アーティな商業ソリューション」と、実際にこれはアートであろうというアプリと2種類あったようで、前者に対する違和感が会場を包んでいた時間もあったように思う。僕はiPhoneアプリを作っている側で、コンテンツ産業に片足突っ込み始めている人でもあるんだけど、この辺りの違和感を正直に表明し、少々突っ込んで検討するのには(それはとても馬鹿だけれども)誠実でありたい。

全ての人の手に表現の道具が行き渡りつつある現在、いわゆるホワイトキューブに展示されるべき「アート」という概念は崩れ始めており、「なう」なアートとそうでないものを区別するのはますます困難になりつつあるから、無下に前者を全否定することはできないし、プラットフォームを作ってアーティストのための機会創造を行っているのは、とても大変ことだ。これは今実際に仕事にしているからこそよく分かる。

のだが、アート的なもの、と、アート、はやっぱり違う。アートとは何かという問いに対して「あえて緩やかな境界しか設けない」ことが、アートを向上させるかといえば、そうではないから、あえて区別することをここでは厭わない。ルールが存在するからこそ、アートが成立している。ここでいうルールというのは僕たちが普段から使っているルール、言語とか文化とか、そうしたみんなに共有されている価値基準そのものだ。現代芸術には、細分化されているものの、明確なルールが根底に基準として存在する。アーティストに求められているのは、このルールを更新し続けることだろう。だから今現在のルールが何なのか、見極める能力がアーティストにも、それを育てる側にも求められる。ではこの国において、アーティストの庇護者はルールを明確に理解し、それを超えたことを分析できるのか。実質的には、「コンテンツ産業」を庇護するために、アートというラッピングを施していると揶揄されても、たぶん誰にも反論ができない。それが、この国の文化産業の弱さなのかもしれない。

今日出てきた「ART」なアプリが「ART」であるためには、「ルールをこのように更新したのだ」という主張が認定され、それが作品に接した者にも無意識的にでいいから理解されなければならないと思うのだが、その過程をさっぱり無視して「アート」だと自己主張するから、違和感を感じるのではないだろうか。

言い方を変えると彼らは表現において、どのような「その発想はなかった」を意図的に観衆に言わせたのか。それを問うて初めて、あれは「アート」だったと言えるのだと感じている。時を経て問われ続けるものもあるし、一刀両断されるものもあるだろう。ART Appsが果たした成果を見守っていくのは、とても楽しみである。

その上で、前述の話題に戻ると、プラットフォーマーがアーティストのための環境整備を自任するならば、アートやアーティストにどう貢献できるのか?彼らの行為を理解した上で場を用意することができるのか?は激しく問われることとなるだろう。アートのためのという冠がついた途端に、そこはTwitterやFlickr、YouTubeといったCGMの延長上にはない特殊な空間を用意した、という性格を帯びることとなる。現代の美術館が「場」の性質の根源から「美術館美術」などのワードで厳しく問われるのと同じように、常に問いかけが必要になる。そうした意識を持つべきか否かを含めて、ART Apps Collectionは議論を呼ぶ出発点としての「場」ではあったように感じたのだが、いかがだろうか。

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3件のコメント

  1. “議論を呼ぶ出発点としての「場」”となること、プラットフォームがアートのための「場」となるか、まさにそこに今回のイベントのねらいがありました。そして、「場」を考えるという事は、メディア芸術においてはとりわけ喫緊の課題である事も含めて。

  2. なるほど、そうでしたか。今回のような試みが、まさに問いを投げかけるべく、継続的に実践される場となると意味がありますね、今後とも楽しみにしています。

  3. @shosira: ありがとうございます。継続的である事は重要と感じています。また、今後はより議論が行える場を形成できればと考えて位ます。

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