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	<title>SHOSIRA &#187; デザイントーク</title>
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	<description>まいぺーすに、でざいんとーく。</description>
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		<title>電子書籍の衝撃：電子書籍の「制約」が見えない</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Apr 2010 17:23:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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		<description><![CDATA[

先日「電子書籍の衝撃」という本をようやく読みました。読みながらTwitterに、ちょっと違和感がある、という呟きをちらっとしたのだけど、どうしてそう思ったか、少しだけフォローしようと思います。

書籍が電子化されると [...]]]></description>
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<p>先日「電子書籍の衝撃」という本をようやく読みました。読みながらTwitterに、ちょっと違和感がある、という呟きをちらっとしたのだけど、どうしてそう思ったか、少しだけフォローしようと思います。<br />
<span id="more-221"></span><br />
書籍が電子化されるというのは、よく考えてみると、とても奇妙な表現です。文章を書き、それを印刷物にし、流通させる。その中で最もハードルが高く、そしてそれ故に、編集という価値が最上のプレミアムとして付加される、という社会の共通認識があったもの、それが書籍です。そして、その区分、雑誌なのか本なのか、といった境界を決めてきたのは、流通や技術という物理的な制約です。そして編集という行為は、メディアというコンテナに、テキストを正しく載せて送り出すための作業であり、それぞれのコンテナに合わせて特化された職能として規定され、機能してきた。実際、新聞記者、雑誌編集者、文芸書担当、それぞれに「編集」の意味合いは、おそらく微妙に異なると思われます。</p>
<p>しかし、電子の海では、そのような区分がありません。短い文章だろうと、長い文章だろうと、同じコンテナに載ってしまいます。そこで何が起きたか。最初、私たちは区分という記憶をデジタルに転写することから始めました。その原型はHTMLの仕様に窺うことができます。インターネット初期、誰もがまずは手紙を電子化するところから始め、次に章立てされた原稿の執筆を試みた。慣れるにつれて、それらはゆるやかに溶け合い、意識されることは少なくなった。紙や流通という制約から解き放たれたが故に、区分が分解されていった結果、制約もなくなった。結果、生まれたのが今のウェブの状況といえます。結果、編集という過程もフラットに分解され、アンビエント化した。今、ウェブ上の編集は目に見えません。編集が遍在化しているからです。編集ができないのではなく、されていないのでもなく、昔のようには可視化できない。</p>
<p>そして現在、ウェブ上で行われているのは、フラット化した「書く」という行為をもう一度見直し、電子化された中で知的探求を行う可能性を探す、制約の模索です。言い換えると、自由だからこそ、あえて制約を課す作業を行っているのです。フラット化の果てに、制約の必要性に私たちは気づいた。メールマガジンという制約、blogという制約、140字という制約、携帯小説という制約。新しい制約を提示することが、コンテンツを生み出す時代になっています。制約を提示するからこそ、創造性が保証される。制約に基づいた創造を行い、制約の更新を行うことが、全ての知的活動の基本原則にある、というのはネットの時代も変わらない。知的作業におけるプラットフォームとは、新しい制約のことです。</p>
<p>書籍という制約は、電子の世界で保てるのだろうか？残念ながら電子書籍という定義に制約がないのであれば、今までのネットがそうであったようにいずれ溶け出して行くでしょう。そこに、明確な制約を定義した人は生き残れるし、そうでない人はネットの海に埋没せざるを得ない。それこそが電子書籍の衝撃なのではないか。そう思います。</p>
<p>今日はもう長めになったので止めますけど、流通の話ばかりに気が囚われて、そうした電子書籍の制約に関するお話がなかなか出てこないのが、個人的には気になるところです。続きは気が向いたら。</p>

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		<title>誰のためのデザイン？は真逆も考える</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/03/14/design-of-everyday-things/</link>
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		<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 22:16:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[iPhone & iPod touch]]></category>
		<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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先ほど、Facebookからのメール通知を止めようとして設定画面を開いたら、計56個以上ものチェックボックスを外さなければならないことを発見して絶望したのです。これはちょっと酷い。


確かにFacebookには多種 [...]]]></description>
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<p>先ほど、Facebookからのメール通知を止めようとして設定画面を開いたら、計56個以上ものチェックボックスを外さなければならないことを発見して絶望したのです。これはちょっと酷い。<br />
<span id="more-190"></span><br />
<a href="http://www.shosira.com/wp-content/uploads/2010/03/facebook_mailsettings.png"><img src="http://www.shosira.com/wp-content/uploads/2010/03/facebook_mailsettings.png" alt="" title="facebook_mailsettings" width="500" height="714" class="alignnone size-full wp-image-191" /></a></p>
<p>確かにFacebookには多種多様な機能がついており、友人との連絡がFacebookを中心として成り立っているのであれば、56個ものチェックボックスでメール通知の有無を管理する作業は必要となるかもしれない。だが、付き合いと興味本位でFacebookに入り、月に1度程度しかログインしない人間にとっては「基本的に全てのメール通知がいらない」のが正直なところ。チェックボックスが50個もつき、それを一括変更できない状態というのは、たとえFacebookほどにSNSが巨大化していたとしても、現在のUIデザインでは考えられない事態のように思える。もし、あえて意図的につけなかったのだとしたら、その理由は何か。</p>
<p>ほぼ全ての項目は確かに、Facebookできちんと友達の環を作っているなら重要なもの。うっかり一括解除したがために通知に気付かない方が大変だ、と考えたのだと思う。しかし自分の場合、メール通知が必要なのは「メッセージを受け取ったとき」と「イベントの招待を受けたとき」の2つだけで、その他54個＋アプリの数に応じた通知を、ひとつひとつクリックで消していく羽目に陥った。それ以外は大して重要じゃない。たとえば極端な例を挙げると、友達として登録されたときの通知なんていらない。たまにログインしてチェックすれば十分。登録してくる人ほとんど知らないので、基本的に要らないのです。</p>
<p>ご存知ないのですよ！？（言ってみたかっただけ</p>
<p>僕たちデザイナーは頻繁に「自社製品中心ご都合主義」に陥りやすいことを自覚しなければならないのかもしれません。ユーザが使っているのは自社の製品だけじゃない。いろんなサイトを使って情報の洪水に溺れている中で、自社サービスしか使わないユーザなんて存在しないのに、どのサイトもが自社サービスを使うように強烈なアタックを仕掛け、ハードユースする理想的なユーザ向けのUIが提供されているというのは、少し考えものです。</p>
<p>だから、僕たちにとって都合がいいユーザの真逆を考えてみるのは、ひとつの方法論として有効だと思っているのです。使用時の状況を、もっと冷徹に思い浮かべる努力というのは、怠っちゃいけない。できれば実際に観察しに行きたい。だけど、例えば大半のiPhone Appで綿密なユーザ観察をしようとすると恐らく大赤字になる。そんなときの思考実験の方法論として、あえて自虐的な厳しい視点を設定してみるのは、ユーザへの甘えを取り除く上で非常に大切で、理想的になってしまいがちな仮定を捨て、ラフな使われ方だったとしても、サービスをその行為の中でスムーズに組み込む努力を怠らないことが、ハードユーザの体験をも向上させたりもするのだと思います。</p>
<p>そうやって開発側が想定するライトユーザというのが、実は一般的なハードユーザの使い方に近いものだったりするからです。いろいろと開発側にとって理不尽な事態というのは、実に簡単にユーザの周りで起きる。作業を中断するとか。途中で別のことを始めてしまうとか。ユーザストーリーを設定してしまうと、そういったソフトウェアにとってはイレギュラーだけれど、現実の生活ではごくごくレギュラーな要素が見えてこないことが多いように思います。Music Aliveを作っていて、それは痛切に感じたことのひとつ。例えば1.0では、途中で電話がかかってきた場合、という想定がすっぽり抜け落ちていた。</p>
<p>あるストーリーを作ってみたら、あえてそこから外れてみる。例えば、両手で使うとして、という想定があったとして、じゃあ片手だったら？と尋ねてみる。そういうのは方法をうまく確立すれば、ある程度は洗い出せる。無意識に前提としていることを、どれだけ意識化できるか。イレギュラーなレギュラーに気付くにはどうするか。今の僕には果てのない課題です。</p>
<p>そういえば話は少し違うが、光回線などの解約手続きといい、クローズ型SNSといい、退会のハードルを故意に高めることで退会率を下げる試みは今も王道だけれど、あれは企業にとって麻薬みたいなものです。何らかの理由で退会手続きを行おうとして一度怒り心頭になったユーザは、その会社の名前を記憶し、以後そこのサービスを使うことはない。例えば以前Yahoo BBで心底嫌な目にあった僕にとって、iPhoneを使うためにソフトバンクを選ぶことは苦渋の選択だったし、加入後、既に３回か４回程度、こめかみに青筋が立っている。ソフトバンクの携帯に関する以外のことでここ数年、そこまで感情的になる事態が起きたことはないのです。あれも、なんとかならないものかといつも思います。</p>

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		<title>身体性を目覚めさせるためのAR、Architectural Computing宣言</title>
		<link>http://www.shosira.com/2010/02/27/architectural-computing/</link>
		<comments>http://www.shosira.com/2010/02/27/architectural-computing/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 26 Feb 2010 20:09:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[Architectural Computing]]></category>
		<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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ARの会社、などと紹介されながら、全くARらしくない事業展開をしていることに説明を求められる機会が増えてきた。私たちの考えるARとはどのようなものなのか。ARというジャーゴンが普及し始めている中で、どのような立ち位置 [...]]]></description>
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<p>ARの会社、などと紹介されながら、全くARらしくない事業展開をしていることに説明を求められる機会が増えてきた。私たちの考えるARとはどのようなものなのか。ARというジャーゴンが普及し始めている中で、どのような立ち位置を取り得るのかについて表明しておくことは重要であると考えられるので、この場を借りて表明しておく。</p>
<p>ARとは本来、グラストロンをかけて観ている場合にいえるもので、カメラを動かしたときに画面上でみえるものは拡張現実のようであって、そうではない。それは完全なる虚像である。グラストロンをかけたときとの身体性と、カメラでみるときの身体性は本質的に異なるものである。画面を手を動かして見るという行為は拡張現実にはなりえていない。観るという身体性は目によって実現されるものであり、手でなされるものではない。現在もてはやされているものはARではなく、ARToolkitを用いたViewerである。ジュラシックパークの恐竜たちと違うのは、カメラの座標点と連動しているというだけのことで、そこに新規性はほぼない。<br />
<span id="more-155"></span><br />
例えば、Wiiリモコンと今までのコントローラーの違いを考えてみよう。バットを振るために、ボタンを押すという行為と、Wiiリモコンを振る、という行動を考える。いずれのインタラクションも結果は同じだが、過程における体験が本質的に異なる。<br />
　既存：座標系を、ボタンを通して射影（座標変換）されなければならない。<br />
　AR：その行為を中心とした座標が、現実と仮想空間とで同一である。<br />
ARでは自分が行った身体的な行動によって、同一座標面上に何らかのActionが発生する必要がある。その意味において、現在もてはやされているARは、身体的な動きを反映したシステムとはなっていない。もしそこに何らかの身体的フィードバックがある、たとえばキャラクターがいて、そこに指を出すと反応する（画面をタッチするという意味ではない）ようなシステムがあれば、そこでARが成立しているということは恐らく可能であろう。</p>
<p>そしてこれこそがさらに重要なことだが、ARによって身体性を拡張する、というのも違う。身体性を目覚めさせるためのコンピューティングこそ、本来必要な指向性である。「身体性を拡張する」という表現には、身体性は常に自覚的にコントロールされているという暗黙の前提があるが、それは全くの誤解である。私たちはそのシステム上、身体性のほとんどを無意識的にコントロールしているのであり、それを自覚的にコントロールすることなどできていない。盲点や錯視を考えれば、自明であろう。この前提に依るべきである。</p>
<p>言い換えるとARは、自覚的に単純化された行為を、さらに単純化・効率化するための技術ではない。ここでいきなり単純化というキーワードを出したが、これは技術者は基本的に作業の効率化と構造化を志向していることに依拠する。線を一本描く作業をOpenGLで為し得ようとすれば、フレームバッファを初期化し、座標系を調整し、アルファチャンネルの有無を決定し、というように、大量のコーディングが必要になる。それがGUIの一般化によって2クリックで終わるようになった。技術者は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、そうした美徳を好む人種である。つまりプログラマーは、現在起きている事象を簡潔にすることを目標として動いている。</p>
<p>例えば、Webの志向は単純化にある。コラボレーションができる、中抜きができる、といったWebの利点は、社会システムを再度単純化し、古代的な1to1のアプローチを復活させたところに価値が生じた。その典型がTwitterである。Twitterは共同体的でありながら個別にコンタクトを取り得る村的コミュニティの形成に適している。</p>
<p>しかし極限までの単純化は、複雑性への回帰をもたらす。ある社会における行動はパターンナイズされているように思える。だが、個別の行動基準で考えれば、それは多様で無限に複雑化された世界だ。例えば今のGoogleがそのような道筋を辿っている。1clickで検索できるというパターン化は、それを個別のパーソナルな検索という基準に落とし込み始めた時に崩壊した。Simplicityの先にある複雑性への先見が必要である。</p>
<p>単純化は同時に、人をたやすくパターン化のサイクルに落とし込む。ググれば出てくる、という事象をみて、人間は馬鹿になったのか、という問いが出ている。レポート、クイズの答えを検索して、その検索結果が世界の全てだと思った人がいる。だが、実社会における問題はそんな容易い問題ではない。そこで壁に突き当たる。ハルヒの絵をググることは可能だが、ハルヒの絵を描くことは難しい。何らかの行為を要求された瞬間に、人間的な性質や経験値が大きく問われてくる。How toは手に入るが、その先のActionは完全に人間の身体的な記憶に依存してしまう。</p>
<p>どんなにデジタル化をしようとも、知識・経験・記憶から人は逃れられない。あなたの世界はあなた自身が創り出すものである。デジタル化で人は馬鹿になるのではなく、何もしていないだけである。また、他者の記憶・経験に基づいて記録されたコンテンツが大量に存在するが故に、そのコンテンツを消費する行為をし続けると、完全なる傍観者になることができる。何も為さずとも生きていける状態が発生する。これがいわゆる象徴の貧困と云われている現象である。他者のストーリーを傍観（消費）し続けるだけで、自分の人生が終わるのだ。永遠の観客の先に人間的で文化的な営みや、記号的飛躍は起こりえない。</p>
<p>だから我々は身体性を取り戻さなければならない。言い換えれば、ただ傍観者になるのみならず、何かのActionを為さなければならない。コンピュータは、それぞれが自分の人生を歩むための劇場や箱ではありうるが、それは観客席なのではない、はずである。今のコンピュータには、人が、これは私のための舞台であり、劇場なのだと自覚し、演劇を営むための装置、つまり象徴の貧困を回避するための枠組が決定的に不足している。How toの先のActionを誘発することこそが、真のコンピューティングの根幹にあるべきだと考える。僕ら（サイフォン）はそれを、Architectural Computingと呼びたい。</p>
<p>そうした思想の中で、ARは身体性を意識化し、人が何かを為すための一助ができる可能性があると私たちは考えている。このような観点に基づいた私たちなりのアプローチについては、また近日、お知らせできるかと思う。</p>

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		<title>ART apps collectionはARTなのか、は現在進行形で問われている</title>
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		<pubDate>Sun, 07 Feb 2010 16:25:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>shosira</dc:creator>
				<category><![CDATA[iPhone & iPod touch]]></category>
		<category><![CDATA[デザイントーク]]></category>

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ART apps collectionというArtyなアプリを紹介するイベントが、現在国立新美術館で開催されている文化庁メディア芸術祭のギャラリートークとして開催されていたので軽く顔を出してきた。iPhone関係のい [...]]]></description>
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<p>ART apps collectionというArtyなアプリを紹介するイベントが、現在国立新美術館で開催されている文化庁メディア芸術祭のギャラリートークとして開催されていたので軽く顔を出してきた。iPhone関係のいろんな人が参加していたみたいで、TwitterのTLにも幾つか参加している顔がちらほら。<br />
<span id="more-126"></span><br />
個人的な感想を述べるならば、商業的で「アーティな商業ソリューション」と、実際にこれはアートであろうというアプリと２種類あったようで、前者に対する違和感が会場を包んでいた時間もあったように思う。僕はiPhoneアプリを作っている側で、コンテンツ産業に片足突っ込み始めている人でもあるんだけど、この辺りの違和感を正直に表明し、少々突っ込んで検討するのには（それはとても馬鹿だけれども）誠実でありたい。</p>
<p>全ての人の手に表現の道具が行き渡りつつある現在、いわゆるホワイトキューブに展示されるべき「アート」という概念は崩れ始めており、「なう」なアートとそうでないものを区別するのはますます困難になりつつあるから、無下に前者を全否定することはできないし、プラットフォームを作ってアーティストのための機会創造を行っているのは、とても大変ことだ。これは今実際に仕事にしているからこそよく分かる。</p>
<p>のだが、アート的なもの、と、アート、はやっぱり違う。アートとは何かという問いに対して「あえて緩やかな境界しか設けない」ことが、アートを向上させるかといえば、そうではないから、あえて区別することをここでは厭わない。ルールが存在するからこそ、アートが成立している。ここでいうルールというのは僕たちが普段から使っているルール、言語とか文化とか、そうしたみんなに共有されている価値基準そのものだ。現代芸術には、細分化されているものの、明確なルールが根底に基準として存在する。アーティストに求められているのは、このルールを更新し続けることだろう。だから今現在のルールが何なのか、見極める能力がアーティストにも、それを育てる側にも求められる。ではこの国において、アーティストの庇護者はルールを明確に理解し、それを超えたことを分析できるのか。実質的には、「コンテンツ産業」を庇護するために、アートというラッピングを施していると揶揄されても、たぶん誰にも反論ができない。それが、この国の文化産業の弱さなのかもしれない。</p>
<p>今日出てきた「ART」なアプリが「ART」であるためには、「ルールをこのように更新したのだ」という主張が認定され、それが作品に接した者にも無意識的にでいいから理解されなければならないと思うのだが、その過程をさっぱり無視して「アート」だと自己主張するから、違和感を感じるのではないだろうか。</p>
<p>言い方を変えると彼らは表現において、どのような「その発想はなかった」を意図的に観衆に言わせたのか。それを問うて初めて、あれは「アート」だったと言えるのだと感じている。時を経て問われ続けるものもあるし、一刀両断されるものもあるだろう。ART Appsが果たした成果を見守っていくのは、とても楽しみである。</p>
<p>その上で、前述の話題に戻ると、プラットフォーマーがアーティストのための環境整備を自任するならば、アートやアーティストにどう貢献できるのか？彼らの行為を理解した上で場を用意することができるのか？は激しく問われることとなるだろう。アートのためのという冠がついた途端に、そこはTwitterやFlickr、YouTubeといったCGMの延長上にはない特殊な空間を用意した、という性格を帯びることとなる。現代の美術館が「場」の性質の根源から「美術館美術」などのワードで厳しく問われるのと同じように、常に問いかけが必要になる。そうした意識を持つべきか否かを含めて、ART Apps Collectionは議論を呼ぶ出発点としての「場」ではあったように感じたのだが、いかがだろうか。</p>

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